連載小説「眠らない女神たち」  第三話 『グレープフルーツのユウウツ』(前編)

Serial Novel 2016年04月27日(水)

連載小説「眠らない女神たち」  第三話 『グレープフルーツのユウウツ』(前編)

グレープフルーツのユウウツ

ビュンビュンと夕暮れの景色が後ろに通り過ぎていく。私はいつものように娘の里依紗を乗せて、自転車をこいでいた。保育園の帰りだ。

時折、里依紗と同じ通園バッグと制服のスモックを着た子とその母親(おばあちゃんのこともある)を追い抜く。

保育園に通い出した頃、里依紗はその1人1人に挨拶をしていたが、今は大人しくハンドルの前のチャイルドシートに収まっている。私が毎日、無心で自転車をこぐから、おしゃべりもしない。

「そおれっと!」

自宅マンションの駐輪場でかけ声と共に自転車のスタンドを立てる。おばさんだと思うなら思え。4才の子供を乗せてスタンドを立てるのは想像以上の力技だ。

「そーれっとお!」

里依紗を下ろすときに、里依紗は私の真似をして言った。何が楽しいのかきゃっきゃと笑って私の手を握る。私も里依紗の小さな手をとって歩き出す。里依紗は今日の出来事を話し始めた。エレベーターに乗っても、自宅の玄関に着いてもそれは続く。私はうんうん相づちを打ちながら聞く。

リビングで里依紗は通園バッグと制服を脱ぎ捨て、私は洗面所へ。化粧を落とす私の隣で里依紗はずっとお話してくれた。

お友達のももかちゃんとお絵かきをしたこと、先生がその絵をほめてくれたこと、だから今度はママにも絵をプレゼントしてくれることなんかを。

私はクレンジングを終えて、洗顔を始めた。里依紗の話はまだ終わらない。とうじくんとサッカーをする約束をしたこと、ももかちゃんの今日の髪型が可愛かったこと、お弁当を全部食べたこと。私は洗顔料を洗い流し、化粧水をつける。

「明依ちゃん、土倉明依ちゃん。里依ちゃんもそれ、つけたい」

話をぴたりとやめ、保育園の先生の口調で里依紗が私に言った。私は驚いて里依紗を見た。そこにはかつての自分の面影があった。お母さんみたいになりたくて、口紅を塗ったりチークをつけたりした女の子の顔。私はクスクス笑った。

「里依ちゃんにはお風呂上がりにいい匂いのクリームをつけてあげるから」
「クリームよりそっちのがいい匂いだもん」

ぷっくりとしたほっぺたをよりふくらませて私を見上げる。女の子だなあ。早く大きくなってと願っているのに、もう少し手元にいてほしいとも思う。なんて複雑な親心だろう。
化粧水をつけ終えた私は床にひざ立ちになって両手を広げた。

「はい、里依ちゃん」

とたんに里依紗は笑顔になって私に飛び込んでくる。

「ただいま、ママ」
「お帰りなさい」

私たちは思う存分お互いのほっぺたをすりあわせてハグし合う。私が職場に復帰して、里依紗が保育園に通うようになってから、この『ただいまの儀式』は毎日くりかえされている。

里依紗は時々パパにもこれをねだる。パパは喜んでぎゅうぎゅうと里依紗を抱きしめて、せがんだはずの里依紗に嫌がられたりしている。けれどその光景は何週間も見ていない。

『ただいまの儀式』が終わると、もう戦争だ。ばたばたと夕食の準備をして、夕食を食べて、里依紗をお風呂に入れてとめまぐるしい。パパがいてくれたらもう少し楽なんだろうか。いや、あまり変わらない。なんたって私が熱を出して寝込んだときに

「いいよ、オレは食べて帰るから」

と言う奴なんだ。彼の頭から里依紗と私の生活がすっぽり抜けている。私が食事を作れないということは私の食事はもちろん娘の里依紗の食事も作れないということに気付いていない。

ママ友の水川さんはそれを「王様の優しさ」だと言った。世話をされていることに慣れて、その世話をしている人も同じだけの日常を送っていることが分からない。私はパパを王様だと思うのはしゃくなので、森のクマさんだということにしている。

学生時代にアメフトをやっていたという大きな体は、結婚してからもっと大きくなった。いるだけでも邪魔だと思う巨体だが、クマさんだから仕方ないのだ。

「パパ、遅いねえ」

お風呂上がりにクリームを塗ってあげているときに里依紗は言った。

「そうねえ」

私はため息交じりに肯定した。今から帰るというメールが入らないから、今夜も遅くなるのだろう。仕事なのか飲みに行ったのか分からないが、ここのところろくな会話を交わしていない気がする。

里依紗と私の髪を乾かしたらもう寝る時間だった。でも私はまだ眠らない。里依紗が寝付いたら私はキッチンでお弁当の準備をしなければいけないから。

時刻は9時をいくらか過ぎていた。オフィスでは誰かが残業しているに違いない。妙な申し訳なさに感じながらも、私は里依紗の隣に横になった。小さなルームランプをベッドサイドでともしながら、里依紗と私は寝る前に少しだけおしゃべりする。みずきちゃんが廊下でころんで泣いたことや先生の昔のあだ名がゆっこだったこと。

明日はピンクの靴下がはきたい、と話したあたりで急に静かになった。私は里依紗が寝付いたと思ったがそうではなかった。

「里依ちゃんね、パパとお風呂入りたかったの」

ぱっちりとした目が今は眠そうに半分閉じかけている。

「そっかあ、残念だったね」

里依紗のサラサラの髪をなでながら答える。里依紗は私の胸に顔をうずめた。パパに会えなくてさびしいのだろう。

里依紗の気持ちを考えると胸の深いところがキュゥッとなる。パパもさびしがってくれているかな。クマさんクマさん、早く帰ってきてよ。里依紗がさみしがっているよ。里依紗が大人になってしまう前に、早く、早く。里依紗の規則正しい寝息を聞きながら、私もいつしか眠っていた。

はっと目が覚めるとベッドサイドのランプは消えていた。私はあわてて時計を確認する。10時30分。ああよかった。私は里依紗を起こさないようそっとベッドを抜け出す。さっきからリビングからテレビの音がしている。パパが帰ってきたのだろう。

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